シルバーバーチ読書会
2015.3.14
医療の世界では、臓器移植が行われるようになって「死の定義」が問題となっています。"脳死"を死ととらえるのかどうかということです。脳死を死と考える人と、脳死は死ではないと考える人、意見は真っ二つに分かれていますが、どちらが正しいという明確な答えを出せずにいるのが現状です。しかし、霊的視点から見れば答えは簡単です。霊的視点から見た死の定義とは「肉体と霊体をつないでいたシルバーコードが切れること」ということです。霊体という存在がわからない現代医学では出すことのできない答えです。しかし、 人間は霊的存在であり、事実、私たちは肉体と霊体という2つの身体をもって生きているのです。そうした観点から見れば、脳死は明らかに死ではありません。霊体と肉体が完全に切り離されたなら、心臓は止まり、肉体の機能を果たさなくなるはずです。脳死の状態では、まだ死んではいないのです。もしかすると、蘇生する可能性だってあるのですから、 それを死んだと判定して臓器を取り出すなど、殺人行為に等しい行為です。日本では、死亡と診断された後、24時間は埋葬・火葬をしてはならないと法律で決まっています。死亡したと診断されても蘇生する可能性があるからでしょう。実際に蘇生した事例もあるようです。要は"シルバーコード"が切れない限り、人間は死んではいないということなのです。今はシルバーコードが切れる瞬間が分かる医師などいませんが、地上人の霊性が高まり、霊的真理が行き渡るようになった社会では、死亡診断をする医師はシルバーコードが切れる瞬間を見ることができる霊能者ということになるのかもしれません。
人生も半ばを過ぎると、身近な人々が順々に亡くなっていきます。私も何度か知人や身内 の葬式に出ることがありました。そのたびに周りとの温度差があることに驚きます。霊的 真理を知って、死後の世界があること、霊界が本来の生活の場であり、この地上よりはる かに美しく幸せな世界であるということが分かっていますから、死ぬことが不幸などとは 思いません。しかし大半の人々はそうは思っていません。涙を流し、永遠の別れであるか のように嘆き悲しみます。そうした中にいて悲しみに暮れていないと、違和感を覚えるくらいです。どこの葬式でもそうなっていると思います。しかし、霊的真理を知り、それが 確信になればなるほど、死は怖くもなく悲しくもなくなります。むしろ死んだ人には、「ご 苦労様でした」「やっとつらい地上人生から解放されたね。お疲れ様」「いつまでも地上付 近をうろつくんじゃないよ。そっちの世界の人が迎えに来てくれるから、ついていきなさ い。楽しい生活が待っているから」と語りかけています。そんなことを思いながら相手に 語っていると、思わず微笑んでしまいそうになり、あわてて神妙な顔に作り変えます。笑 顔で亡き人を送れるような葬式ができるようになればなあと心から思います。
※「死後の世界」の存在がもたらすもの〈宗教者の苦悩〉については、「名古屋シルバーバーチ読書会」に掲載しています。そちらもぜひお読みください。 (名古屋シルバーバーチ読書会 参照ページへ ⇒)